
佐世保空襲資料室(長崎県佐世保市戸尾町)が展示面積を広げ、10月にリニューアルオープンした。市民から提供された約1500点の資料や戦時中の生活用品を再整理し、焼け野原となった街の様子、平穏を奪われた市民の暮らしが分かるように展示を工夫している。
焦土と化した夜店公園通り、焼け残った鉄道の高架橋や親和銀行本店-。資料室に入ると、1945年6月28日深夜から29日未明にかけて空襲を受けた中心市街のモノクロ写真が壁に並ぶ。隣の地図を見れば撮影地点が分かる。市民にとって、どれもなじみのある場所ばかりだ。
この展示写真の半数以上は、9月まで倉庫に眠っていた。
資料室は1242人が亡くなった佐世保空襲を伝え継ごうと、旧戸尾小校舎の1教室を活用して2006年に開設。佐世保空襲犠牲者遺族会と佐世保空襲を語り継ぐ会が協力して運営してきた。だが大量の資料を展示するには狭く、語り継ぐ会の友平靖子さん(83)は「不本意だけど、展示できずに埋もれていた物もあった」と振り返る。
両会は市に資料室の拡大を要請し、別の校舎の2教室に移転。整理が行き届かず、山積みになっていた資料もようやく公開できるようになった。一室は展示資料室、もう一室は関連書籍の閲覧やDVDの視聴ができる図書資料室にしている。
資料整理に携わった語り継ぐ会の木原秀夫さん(75)は「約1500点の資料は全て寄付。提供者の意思を生かさんばって、壁も使ってできるだけ多くの展示を心掛けた」と語る。
展示資料室は「佐世保空襲コーナー」と「戦前・中・後の生活コーナー」に区分。空襲コーナーには、被害を受けた場所が一目で分かる立体模型を置き、米軍機B29の三つの飛行ルートを3本の糸で表した。
B29は最初に市街地の北側、次に南側、最後に中心部へ飛来した。「焼夷(しょうい)弾は先に外側、最後に内側へ落とす。逃げ道をなくすためだ」。木原さんの説明を聞いて立体模型を見ると、空襲の実像がより具体性を帯びて伝わる。
当時の弁当箱や教科書など、触ることができる展示品も多い。戦車の砲弾は、両腕に力を入れて、やっと持ち上がる重さだった。
生活コーナーの一角には3体の人形が立つ。火の雨が降り注ぐ真夜中に、家で身を寄せ合う親子に見立てた。幼い子どもの防空頭巾には「日宇町/松永誠子3才」の文字。母親は着弾時の消火に備え、竹ざおと縄で作った頼りない火たたきを左手に握る。親子の人形は空襲におびえていた75年前の佐世保市民そのものだ。
資料室が再開して、地元の中学生が平和学習に訪れた。「見て、触って、読んで。以前の資料室に比べ、たくさんの資料で戦時中を想像できるようになったのではないか」と木原さん。
遺族会は長年、独立した空襲資料館の開設を市に求めている。会長の臼井寛さん(86)は資料室の拡大を「一歩前進。開設までの暫定地点」と受け止める。
19人の会員は高齢化が進み、空襲体験者がいなくなる時代が近づく。「われわれもできる範囲で継承活動を頑張るが、行政がやるしかない時がくる」。今後も市への働き掛けを続ける。
空襲資料室は土日の午前10時~午後3時に開館。遺族会や語り継ぐ会の会員が常駐している。
(平山成美)
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November 19, 2020 at 09:00AM
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見て触れて「戦争」感じて…佐世保空襲資料室リニューアルオープン - 西日本新聞
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